天国などない
今、音楽業界は変化の真っ只中にあって、CDや配信の売り上げよりもライブによる収益が上回りつつある。
アーティスト、ミュージシャンとして売れるためには、いいライブをすることを強いられている。
体験は唯一無二だから、このコピー溢れる社会のおいては必然の流れであるし、いいライブをするアーティストが増え、そして照明やその他演出も進化していくわけだから、イチ消費者としては特に悪い流れだとは思ってなかった。
時は遡って、
「アメリカン・イディオット」という作品をGreen dayがこの世に生み出したのは2004年。
この作品の制作期間中、世界はイラク戦争という憎しみ合いの中、沢山の血が流れた。
そして、翌年にはこのアルバムからの2nd シングルが、グラミー賞最高賞、最優秀レコード賞を受賞した。
時は戻って、2016年。
体験型音楽への移行の過程で、オーディエンスを踊らせる目的の下作られたEDMが世界を席巻し、日本ではアイドルが次々と記録を塗り替える。
アイドルだからといって、バカにしてはいけない。
「可愛い」だけでは生きられない。厳しい現実に対峙し、笑顔の裏で想像を越える努力をしている。
気鋭な作家も数々登場し音楽の質上がり、パフォーマンスも、ライブ会場もどんどん向上している。
売り上げという結果も伴って。
不意にGreen dayを聴いた夜。
今も世界は泣いている。
今から40年前に、ジョン・レノンは「Imagine」で何を歌ったっけ。
僕が音楽に求めるもの、そして今の自分にできることを問いた月曜日。
Who I am…何でもない男の奉仕活動
「勤めている仕事の話は抜きにして、5分間自己紹介をして下さい。」
何も語れないことに気がついた3年前。
会社がなくなると、給料がなくなるだけでなく自分自身の説明すらつかなくなってしまった。
自己ってなんだろう?
30歳という節目となった年に、そんな疑問を胸に抱えた。
こんな出だしから始まる今日のテーマはボランティア。
今日に至るまで、数々のボランティアに参加してきた。
なぜやってるいるのか?
ようやく自分の中でまとまったので、ここに記したいと思う。
ご存知のよう、ボランティアとは基本的に給料は発生しない、無償の奉仕である。
やってみるまで、それをやる意味が全く不明だった。
自己紹介で何も語れない自分に気付き、自分探し病に冒されていたとき、ふと目に入ったはボランティア募集の看板。
「知らない人ばかりで怖いなぁ」
「重労働を課せられやしないかなぁ」
と、不安も大いにあったが、その募集は病に対する処方箋に思えた。
今思えば、
思い切って飛び込んだその日が一つの転機になったかもしれない。
その日を境に僕は、
やりたいと思っていた、人が集まるシェアハウスという夢が実現した。
街のイベントの実行委員に携わらせていただくようになり、好きな街にほんの少しだけど、貢献できるような機会が持てるようになった。
自分が何をやっているかを人に説明できるようになった。
処方された薬の効果はテキメンだったのだ。
なぜだろう?
その答えは「人」である、と僕は思う。
「人」が僕の夢を実現してくれた。
勤めている会社や利害関係の下で僕らをつないでいるのは「お金」である。
ボランティアのような無償奉仕の間で僕らをつないでいるのは「人」である。
どっちが良い悪いの話ではなく、両方大事。
どちらも僕らに幸福を与えてくれる。
ただ、種類が違うだけ。
金銭的な利益だけの尺度だけの判断では、得られないものがある。
そんなことに気が付いた。
「本当に価値のあるものは野心や義務感からではなく、人間に対する愛情や献身から生まれます。」
と説いたアルバート・アインシュタインの言葉が重なる雨の木曜日。
昔好きだった、今日が誕生日の君へ
その容姿、その中身に惚れて好きになったのが3年前。
意を決して思い切って告白してみたものの、まずは友達からということで、そんな関係から始まった。
毎日LINEや時には電話をし、そのうちに僕の日常に欠かせない存在となった。
ところがある日、その子が突然体の不調を訴え、コンタクトの頻度が下がってきた。
それからまたしばらくした後で、
「これ以上は無理」
と、眼を閉じて言ったその顔が最後のそのコの記憶。
気持ちの整理をつけるのに大分時間は掛かったが、僕は今新しいパートナーと幸せな日々を過ごしている。
僕のわがままな要望もいつもすぐに応えてくれる、とても献身的なコだ。
正直、もう昔のことなんて忘れていた。
が、今朝届いた一通のメールから、今日が“あのコ”の誕生日だったことを思い出す。
ずいぶん遠回りしたけども、やっぱり私に必要だったのはあなたでした。
色々書いてはあったけど、要約するとそんな内容だ。
いくら好きになった相手だからと言え、そのコの都合で僕の元を離れ、もう戻れないと覚悟を決め、新たな人生を歩んだ僕にはもうそのコに魅力は感じない。
一度離れた心は戻らないのです。
iPhone SE。
僕にとっては、そんな印象なのです。
持病の中二病に悩まされる木曜日。
カレー好きな彼と調理人の憂鬱
「カレーが食べたい」
従順な調理人はすぐさま材料を揃え、彼のためにカレーを作る。
しばらくは満足だった彼だが、今度は
「いつでもすぐにカレーが食べたい」
と言う。
従順で賢い調理人はいつでもすぐにカレーが食べれるよう、彼に簡単カレーキットを用意する。
面倒くさがり彼でも、いつもでカレーが食べることができた。
しばらくして、カレーに飽きた彼は突然シチューが食べたくなって、カレーキットを使ってシチューを作ろうとし、うまくシチューができないことに文句を言う。
見兼ねた調理人は、カレーもシチューも簡単にできるキットを彼に与える。
そのときの気分でカレーもシチューも簡単に作れるキットに満足をしていたが、そのうちに日替わりで他のメニューも食べたい気持ちが芽生えてきた。
彼の果てしないわがままに困った調理人は、とある科学者のもとへ相談に行く。
「彼がカレーが食べたいと言い始めたときに時を戻すから、日替わりで何でも簡単に作れるキットを彼に提供しなさい」
と科学者は言い、その名案に乗った調理人は何でも簡単に作れるキットを手に時を遡る。
「カレーが食べたい」
先を見越した調理人は日替わりで何でも簡単に作れるキットを彼に渡す。
「使い方がわからない」
と彼は嘆く。
星新一的妄想の水曜日。
手段、またはエゴ
世の中、なかなか自分が思っている通りにはいかない。
と、ひがむのは簡単。
大抵、自分が思っているようにはいかない。
「自分が思っていること」をして何を得たいのか。
その”目的”を自分の中ではっきり持っておく必要がある。
”目的”を達成させるための”手段”を否定されて、
「なかなか自分が思っている通りにはいかない」
と悲願していては、叶う夢も叶わない。
就職したい会社に受からないかもしれない。
住みたい場所に住めないかもしれない。
自分が恋してやまない人と付き合えないかもしれない。
しかし、それってよくよく考えてみると、
その会社に就職することが”目的”ではないし、住みたい場所に住むことが”目的”ではない。
そして、恋する人と付き合うことが”目的”ではない。
全て、自分の”目的”に対する”手段”に過ぎないと思う。
その”手段”が達成されないことに悲願し、諦める。
しょーがないとこで現実を恨む前に、一つしか”手段”を持ち合わせられなかった自分を見直してみてもいいんじゃない?
なかなかうまくいかないことが多い現実に直面する月曜日の午後。
P.S.
開始当初は毎週金曜日更新とルールづけていましたが、更新日を目指して作り込んでしまい、本来のこのブログの意図が損なわれてしまったので、思い立ったが吉日更新に変更しました。
つまらない発表から気付くこと
先週末、親友との飲みの席で彼から
「まず現象を発見し、その利用方法は受け手に考えさせる」
という物理学の考え方に触れた。
この話が出たとき、僕らは妄想ビジネスの話をしていて、
僕の考えとして、
「ニーズを洗い出し、その問題解決の提案をすることがビジネスに繋がる」
という発言からのカウンターとしてもらった言葉だ。
物理学とビジネスとで対象が異なるとはいえ、見事に真逆な考えで面白いなぁと思った。
現行モデルのスペックをそのままに、人気があったサイズ感で再提供。
今回の発表はとてもつまらないものだと僕は思えた。
「なるほど」と思わされた火曜日の朝。
意味のない話
男は何事にも解決をしたがるという。
○○は男っぽい、○○は女っぽい。
そういうのは関係なくとも自分自身は、ただ言いたいだけ、無目的な内容を発するのが苦手みたい。
苦手というまた違う。
意味のないとこを発する意味を見出せない。
ほら、そんな感じに。
じゃあ、発しなくてもいいじゃない。
確かにそれで済む話。
でも無性に書き残さなきゃいけない感覚に駆られるときがあるから、また困る。
きっとこのブログは、そんな感情に意味を持たせるために始めたのかもしれない。
きっと衝動を衝動のままに発した方が、このブログに性質に合う気がした反省後の午後。
意味は後から付いてくる。